自粛期間何してる?ー2年CTB松尾優太郎

2年 松尾 優太郎(CTB/芸術工学部)

特筆して面白いことをやってはいないが、唯一他の部員がやっていないような趣味と言ったら執筆活動であろう。時間を見つけては、自分で文庫本程度の小説を描いている(自分自身小説を書き始める前に画用紙に一枚の絵を描く。それは今の心情だったり、世の中への憂いだったり。これを基にして私は小説を書き始める。そのため私は敢えてここでは小説を“描く”としたいと思う。)。
皆さんの中には、何故そのようなことをするのか疑問に思っている人もいるだろう。そのため、ここで小説を描くことの利点を述べていきたいと思う。
一つ目は現実で出来るはずのないことが出来てしまう、という点だ。皆さんも一度や二度位は、周囲の人に対して負の感情を抱いたことがあるだろう。物語の中では彼らを傀儡の様に扱うことが出来るのだ(決して猟奇的だったり狂気的だったりする訳ではない)。考えて欲しい、現実世界で同じ様なことをしたらどうなるだろう。苛立ったら、傷付ける。気に食わなかったら、傷付ける。そんなものは何も生まない。生むとしたら贋物の優越感程度のものだろう。そして失うのだ、積み上げてきた信頼と、未来への可能性を。
二つ目は創作活動自体が今の時代に合致している、という点だ。元来“創作” というのは、狩りがよりしやすくなる様な弓を作ろう、稲作がよりしやすくなる様な鍬を作ろう、等といった実体のあるモノに対して向けられていた。無論、現代の生活インフラが充実してきた社会においても元来の意味で用いられる。しかし古代より生活様式が多様化し、主種の人間生活が同時代に流れている今、大儀として存在する「人々の生活をより豊かにする」(これは経済的のみならず、精神的や肉体的にも)という概念がより重要視されるのではないだろうか。既存のプロダクトやテクノロジー等、それ自体を前提とし創作活動を始めるのではなく、その“もの”の在り方、そう在るべき姿から創作活動を始めるようになったのではないか。こういった意味でも単純に、人に読んで欲しい、感動を与えたい、という目的で自分の理想を描く、執筆というものは現代的であるとも言えるのではないか、そう感じざるを得ないのだ。
三つ目は語彙力が向上する、という点だ。ここに来て単純な理由だな、と感じる方もいるかもしれない。しかし執筆において得られる語彙力は他の何物にも代えがたい、寧ろ代えることのできないものであると、私は思う。小説には文字しかない。そこには、解説図も音声案内も無いのだ。すると見易さ、見難さを判断する材料は文字一つ一つの並び方、それのみなのである。皆さんが文章を読む際、さして難しくも内容なのだが読み辛かったり、読み疲れたりしてしまうことは無いだろうか。カミュの言葉に「悪しき作家とは、読者に理解できない自己の内部での文脈を考慮に入れながら書く連中である。」というものがある。文字は語っているのだ、それ自身で。
ここまで聞いてくださった皆さんはもう筆を握っていることだろう。物事を始めるのに遅すぎる、ということは無い。小説においてこれは強く言えると思う。松本清張氏の処女作は42歳の頃だそうだ。筆を握れば何か生まれるのだ。新たなものが。

・自粛明けの目標

自粛期間のトレーニングを生かし、自分の強みであるスペースへの走り込みやフィジカルの強さを一層強化し、チームに欠かせないプレーヤーになる。

2年の最後を締めるのは、松尾とは喧嘩するほど仲がいい関係、全てにおいて締め切りを過ぎる要注意人物 楢原尚見です!